黒田官兵衛(黒田如(じょ)水(すい))

黒田官兵衛(黒田如(じょ)水(すい))

               

『さてさて天の加護を得させ給ひ、 もはや御心のままに成たり』

これは1582年に本能寺で信長が討たれたという知らせをうけたとき、黒田官兵衛が秀吉に対して発した言葉である。

本能寺の変を知った官兵衛はすぐに備中高松城の戦いを毛利氏と和睦する形で終わらせ、秀吉全軍を京都へ大移動させた。

このとき官兵衛はいち早く明智光秀を討つため、途中で中国攻めの拠点・姫路城への立ち寄りをしないよう秀吉へ進言し、その手筈を整えたことで姫路城へ寄ることなく明智討伐へ向かったという。

明智光秀による本能寺の変で、信長が亡くなったことを、秀吉に直ちに通報し、

筑前(秀吉)どの。今こそ天下を取る機会です」

と、官兵衛が秀吉を焚きつけた。

秀吉を援助するために、毛利輝元と和睦して中国大返しを成功させたのはほかならぬ官兵衛であった。

三法師擁立の清洲会議後には秀吉に従って柴田勝家を破った。

また、毛利輝元宇喜多直家の和平交渉を成功させ、実質的に秀吉の臣下に加えるなど外交面でも手腕を発揮し、秀吉を大きく助けた。

その後、四国平定後に高山右近蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信し、島津義久を降伏させた九州平定でも活躍するなどして、秀吉の天下統一に大きく尽力したのであった。

 その後、後藤又兵衛も家臣に加わり、1大名の家老から、九州の中津城12万石を拝領する出世を果たしたが、この黒田官兵衛の才知を高く評価していた秀吉も、彼の実力を次第に恐れるようになる。

そんな、秀吉の心情をいち早く察知した黒田官兵衛は、バテレン追放令が出ると高山右近らとは異なり、すぐさまキリスト教を棄教し、自分には野望がないと示すため、我が息子黒田長政家督を譲って隠居しようとするが、秀吉も抜群に役に立つ官兵衛を手放す決心がつかず、結果的に隠居は許されず、大阪城の近くに屋敷を与えられ、引き続き秀吉の側で采配を振るった。

茶の湯が盛んであった秀吉の時代に、官兵衛は一人これを嫌い「勇士の好むべきものではない。主客が無刀で狭い席に集まり座っており、きわめて無用心だ」と度々言っていた。

 

けれどもあるとき、秀吉が官兵衛を茶室に招いて合戦の密談をしたのち、

「こういう密談が茶の湯の一徳なのだ。何でもない普通の日にそなたを招いて密談をすれば、人々に疑いを生ぜしめ、禍を招くことにもなる。ここならば例の茶の湯ということで人は疑いを生じることはない」

と言った。

官兵衛は秀吉の言葉に感服して、

「拙者は今日はじめて茶の味のすばらしさを飲み覚えました。名将が一途に物にのめり込むことなく心を配っておられる点は愚慮の及ばぬところです」

と言い、官兵衛も茶の湯を好むようになったという。

 

しかし、官兵衛は秀吉の天下の治め方では二代は続かないことを論じ、次には家康の時代がやってくることを予言したのだった。

その結果次の小田原攻めでは、小田原城の開城交渉を行い、敵ながら官兵衛の人柄に惚れ込んだ北条氏直は、家宝を官兵衛に授けた。

その北条家伝統の家宝は今も博物館に現存する。

やがて豊臣秀吉が亡くなり、前田利家も死去すると、官兵衛はすかさず天下の実力者は家康と見て家康に接近し、石田三成と敵対する。 

関ヶ原の戦い直前には、大名の妻子を人質に取ろうとし、細川ガラシャが自害するという事件も起こしますが、官兵衛正室・光姫と、黒田長政正室・栄姫は栗山善助母里太兵衛らの策で脱出させる事に成功する。

関ケ原の戦いでは、官兵衛の息子黒田長政が黒田勢を率いて、関が原の戦いに挑んだ。関ケ原は、日本という国の支配者を決める戦いであった。

官兵衛は「家康殿のほうが、平和な日本を作ってくれるに違いない」と思った。  

官兵衛の果敢な働きを目にした結果、家康から「一番の功労者は官兵衛なり」

と、称せられて大いに面目を施した。
 官兵衛は九州・中津城にいたとき、手薄となっている九州の敵を攻略する好機と、蓄えていたお金をすべて使い、浪人や領内の百姓など兵士として雇いいれた。
 すぐさま1万人が集まると、その即席軍を指揮し、たった約2か月で加藤清正らと共に九州一円を制覇した。しかし、家康の停戦命令を受けると素直に従い、九州の諸州の諸城を一つ残らず家康に差し出した。
 官兵衛が力を付けることを警戒した家康は、黒田長政への福岡52万石の恩賞のみに留めた。以後官兵衛は太宰府天満宮内に草庵を構えさえ、隠居生活を送らせた。雅号は如水。

 官兵衛は頭が良すぎて、弁舌がさわやか。常に群を抜いていた。しかし官兵衛がその才をひけらかすので、他にも利用はされた。信長からも秀吉からも家康からも警戒された存在であった。

最後に官兵衛のことわざ一つ

 

『乱世に文を捨てる人は滅びる』

 

「ええか?

たとえ侍でも戦うばっかりやのーて、本を読まなアカンぞ。

本を読まへん人間は、理屈がワカランさかいに、ちゃんとしたルール(法律とか)を決められへんで、私利私欲でルールを決めてしまう……そんなことしたら、家臣や国民に恨みを買うだけで、そんなヤツの治める国は、結局は滅びるんや。

 

おっと……本を読むっちゅーても、単に数をよーけ読むっちゅーことやないで。

もちろん、故事を覚えたり、字を覚えたり、詩を書けたり、なんていう知識を詰め込む事でもない。その真意を読み解くっちゅーこっちゃ」。

 

 官兵衛の言葉はわれわれに響きわたる。

                おわり

「水の一滴、血の一滴」を読んで

「水の一滴、血の一滴」

           を読んで

                       

この作品は、深澤忠利氏のさる機関への応募作品で、246ページにわたる大作である。

 この小説は戦争の真っただ中において水の一滴がいかに大切かと言うことを主人公中野が生きるか死ぬかの緊迫した苦しい体験の中で、主人公中野を通じて読者に伝えようとしているところは、真に迫っていてひょっとして筆者は軍隊体験者ではないかとさえ思われ、読者を魅了する。

 しかし、そのはずはないのである。現在彼の職業はフリーライターであり、私より10歳も年下である。しかも彼は『この物語は完全なるフイクションであります。当時の警察組織及び呼称、作中の日・米の人物名、部隊名、刑務所などにおける建築物、役職名、階級、またそれに係る事件との関連性はあくまで作者の創作であることを念のため記しておきます。著となっていて、作者の空想力のすばらしさを見る思いがする。

 彼は三田文学で活躍しておられた入江央氏と仕事上一緒になさったことがあり、その時「知人で『えん』の雑誌を作っておる仲間がいるから一緒に協力してやって欲しいと頼まれ、10年を限りに協力を約束して、横浜の『えん』エストの会にも出席、来年がちょうど10年目である。今は入江氏も亡くなった。私は来年の9月にはもう一作、大作を出すつもりで頑張っています」とのことである。

「『えん』も72号で終わりだ、73号で終わりだなどと騒いでいないで、枯れるように自然に終わっていくのがいいのじゃないですか。」と、優しいお言葉もいただきました。

 いつも、楽し気に集まって協力してくださった仲間の顔が賑やかに応援してくれて、水の一滴が応える。一人で年間二五〇ページ以上の大作に挑まれる深澤さん「えん」も負けられません。

信長と家康

信長と家康

     

松平竹千代は天文11年12月26日、松平家8代目岡崎城当主松平広忠の長男として誕生した。

松平竹千代の生涯は子沢山で、11男5女をもうけている。

元和2年4月17日没。

享年、75歳であった。

ちなみに夢半ばで亡くなった信長は49歳で没、秀吉は62歳でなくなっている。

やはり長生きすることは、人間の生涯にとって、最高のことではないだろうか。

 

天文11年竹千代は、三河の国岡崎城(現在の愛知県岡崎市)で生まれた。

天文16年(西暦1547年)織田の総攻撃が始まり大量の軍勢を岡崎に責めてくるということを知って驚いた竹千代の父松平広忠は、今川に援軍を要請した。

しかし、今川も何の見返りもなしに援軍を送るはずもなく、「人質をよこせ」との返事が来た。

困った広忠は、可愛がっていた6歳になったばかりの長男の竹千代を駿府の今川に送った。

竹千代の警護役は戸田宗光であった。

宗光は今川に背くことなく忠誠を誓う、信頼のおける男だった。

ところが、戸田は竹千代を駿府に送るどころか、竹千代を奪い取り銭千貫文で織田信秀に竹千代を売り飛ばしたのであった。

織田家に連れてこられた竹千代は広縁にしょんぼり泣きながら座っていた。

その時狩りから帰ってきた竹千代を見咎め織田家の長男、信長は、

「おい、お前はどこの坊主だ!」

竹千代は、毛をぼさぼさにして汚い装束をして刀を担いだ男を見てわっと泣き出した。

「泣くな、男のくせに。ホレこれをやるぜ。」と、今仕留めてきたばかりの血の滴り落ちる狸の死骸を板の上に投げた。

 竹千代はびっくりして飛び上がり、大声で泣きだした。

 驚いて飛び出してきた家来たちに、信長は、

「そーら今夜は旨い狸汁じゃ。運び去れ」

狸は家来たちによって、運び去られた。

 縁でまだ泣いている竹千代の横にどっかりと座った信長は、

「おぃお前、男のくせにもう泣くな。男は泣かぬものじゃ。明日から儂がきたえてやるけに」

 と、信長は笑って立ち去った。

 翌朝から竹千代は信長にたたき起こされた。

 庭で毎日のように取っ組み合い。

剣道で鍛えられた。

 泣き虫竹千代も、鍛えられて。織田家で2年たったころ、竹千代の父広忠は家臣の謀反によって殺され、今川の元に身柄を移され、竹千代は今川の元で元服した。

竹千代は、次郎三郎元信となる。

 数か月後、今川義元の姪、瀬名姫を娶る。

 でかした。

 長男竹千代の誕生。後の信康である。

 数年後、元信は、性を松平から徳川に改名。

 長男竹千代は家康に愛されたが、その後数奇な運命をたどる。

 長男誕生から14年後、三方ケ原の戦い。

 徳川軍は武田軍の侵攻に敗戦。大きな犠牲を出す。家康は「まだ死にたくわない。」

と、必死の思い出で帰城。

 この時家康は馬上で便を漏らしていたが、集まった家来たちに、

「これは味噌じゃ。味噌じゃ」

 と、ほっとして冗談を言って家康は笑った。武田軍に対する恐怖のあまり脱糞していた

のですが。家康は部下に冗談を言って笑わせた。

 部下たちも

「そうじゃこれは糞ではない。臭くはないぞ。」

 と笑って殿の下着を取り換えた。

 夕食にみそ汁が出て、家康が、

「これはわしの味噌が入っていてことのほか旨いぞ」

 と言ったので、家来たちは一瞬箸が止まったが、

「なるほど旨いうまい」と箸が進めた。

 家康の長男竹千代は9歳で信長の娘篤姫と結婚して元服して信康と名乗っていたが、14差で初陣を飾り、順風漫歩に見えたが。

 家康の実母の疑惑。

 篤姫との不和。

 様々な要因が重なり、家康自ら信康の切腹を命じた。

 その後、湯津人の時はいつも、

「出陣だ。信康。

 

島津義久

島津義久      

 

(1)黎明期

 

天文 4年7月23日(1535年8月21日)、島津貴久の次男として生まれた。はじめ忠平と称したが、後に室町幕府15代将軍・足利義昭から偏諱を賜って義(よし)珍(たか)と改め、さらに義弘と改めた。

 

天文23年(1554年)、父と共に大隅国西部の祁答院良重・入来院重嗣・蒲生範清・菱刈重豊などの連合軍と岩剣城にて戦い、初陣を飾る。 

 弘治3年(1557年)、大隅の蒲生氏を攻めた際に初めて敵の首級を挙げた。だがこの時、義弘も5本の矢を受けて重傷を負った。

 

 永禄3年3月19日(1560年4月24日)、日向国の伊東義祐の攻撃に困惑する飫肥の島津忠親を救う意味で、その養子となって飫肥城に入った。

 しかし永禄5年(1562年)、薩摩の本家が肝付氏の激しい攻撃にさらされるようになると帰還せざるをえなくなり、義弘不在の飫肥城は陥落、養子縁組も白紙となった。

 

 北原氏の領地が伊東義祐に奪われたため島津氏はそれを取り返すために助力したが、北原氏内部での離反者が相次いだため義弘が真幸院を任されることとなり、これ以降は飯野城を居城とすることになる。

 永禄9年(1566年)、伊東義祐が飯野城攻略のために三ツ山城を建設中と聞き及ぶと、兄・義久、弟・歳久と共にこの完成前に攻め落とそうとするが、城は落とせずまた伊東の援軍と挟み撃ちにあい、義弘も重傷を負って撤退を余儀なくされた。

 

(2)勢力拡大

 

 義久が家督を継ぐと兄を補佐し、元亀3年(1572年)、木崎原の戦いでは伊東義祐が3000の大軍を率いて攻めてきたのに対して300の寡兵で奇襲、これを打ち破るなど勇猛ぶりを発揮して島津氏の勢力拡大に貢献した。

 

天正5年(1577年)には伊東義祐を日向から追放、天正6年(1578年)の耳川の戦いにも参加して豊後国から遠征してきた大友氏を破る武功を挙げている。天正9年(1581年)に帰順した相良氏に代わり、天正13年(1585年)には肥後国守護代として八代に入って阿蘇氏を攻めて降伏させるなど、兄に代わって島津軍の総大将として指揮を執り武功を挙げることも多かった。天正14年(1586年)には豊後に侵攻して大友領を侵食する。

 

 天正15年(1587年)、大友氏の援軍要請を受けた豊臣秀吉の九州平定軍と日向根白坂で戦う(根白坂の戦い)。このとき義弘は自ら抜刀して敵軍に斬り込むほどの奮戦ぶりを示したというが、島津軍は兵力で豊臣軍に及ばず劣勢であり結局敗北する。

その後の5月8日に義久が降伏した後も義弘は徹底抗戦を主張したが、5月22日に兄の懸命な説得により、子の久保を人質として差し出すことを決めて降伏した。このとき秀吉から大隅国を所領安堵されている。

 

なお、この際に義久から家督を譲られ島津氏の第17代当主になったとされているが、正式に家督相続がなされた事実は確認できず、義久はその後も島津氏の政治・軍事の実権を掌握しているため、恐らくは形式的な家督譲渡であったものと推測されている。また、秀吉やその側近が島津氏の勢力を分裂させる目的で、義久ではなく弟の義弘を当主として扱ったという説もある。

 

天正16年(1588年)に上洛した義弘に羽柴の名字と豊臣の本姓が下賜された。一方、義久には羽柴の名字のみが下賜された。

 

(3)豊臣政権下

 

その後は豊臣政権に対して協力的で、天正20年(1592年)からの文禄の役、慶長2年(1597年)からの慶長の役のいずれも朝鮮へ渡海して参戦している。

 

文禄の役では四番隊に所属し1万人の軍役を命ぜられたが、旧態依然とした国元の体制や梅北一揆により、豊臣体制下では生存条件とも成る軍役動員がはかどらず「日本一の遅陣」と面目を失い、四番隊を率いる毛利吉成の後を追って江原道に展開した。また、和平交渉中の文禄2年(1593年)9月、朝鮮滞陣中に嫡男の久保を病気で失っている。

 

慶長の役では慶長2年(1597年)7月、藤堂高虎らの水軍と連携して朝鮮水軍を挟み撃ちにし、敵将・元均を討ち取った(漆川梁海戦)。8月には南原城の戦いに参加して諸将との全州会議に参加した後、忠清道の扶余までいったん北上してから井邑経由で全羅道の海南まで南下した。その後、10月末より泗川の守備についた。

 

日本側の記録によれば、朝鮮の役で義弘は「鬼石曼子(グイシーマンズ)として朝鮮・明軍から恐れられていたとされている。「島津」のことを発音から、明では「石蔓子」(明史等)、朝鮮では「沈安頓」・「沈安頓吾」(朝鮮王朝実録等)などの表記で記録を残している場合もあり、「鬼石曼子」すなわち「鬼島津」である。  

ただし、現存する朝鮮側資料に「鬼」を冠した記載は見つかっていない。「鬼石曼子」の表現について朝鮮通信使の一人だった元重挙は『和国誌』で日本側の記録を訳しながら「何を意味するのか分からないが日本の鬼の名のようだ」と記している。

 

慶長3年(1598年)9月からの泗川の戦いでは、董一元率いる明・朝鮮の大軍(島津報告20万人、『宣祖実録』十月十二日条 中路明軍268002万7千人及び朝鮮軍2千2百人の計3千人)を7千人の寡兵で打ち破り、島津家文書『征韓録』では敵兵38,717人3万九千人を討ち取った記載がある。

これは朝鮮側史料の参戦数と照らし合わせれば、夫役に動員された明・朝鮮側の非戦闘員を含めるとしても誇張・誤認の可能性はあるが、徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評した。

島津側の数字を採用するなら、寡兵が大軍を破った例として世界史にも類例のない大勝利であり、この評判は義弘自身や島津家の軍事能力に伝説性を与え、関ヶ原の戦い、ひいては幕末にまで心理的影響を与えていくことにもなった。なお、このとき義弘は正確な時を知るために7匹の猫を戦場に連れて行ったというエピソードがある 。

 

朝鮮からの撤退が決定し、朝鮮の役における最後の大規模な海戦となった11月の露梁海戦では、立花宗茂らともに順天城に孤立した小西行長軍救出の為に出撃するが、明・朝鮮水軍の待ち伏せによって苦戦し後退した。しかし明水軍の副将・鄧子龍や朝鮮水軍の主将・李舜臣を戦死させるなどの戦果を上げた。

またこの海戦が生起したことで海上封鎖が解けたため、小西軍は退却に成功しており、日本側の作戦目的は達成されている。これら朝鮮での功により島津家は加増を受けた。

 

(4)関ヶ原の戦い

 

慶長3年(1598年)の秀吉死後、慶長4年には義弘の子・忠恒によって家老の伊集院忠棟が殺害され忠棟の嫡男・伊集院忠真が反乱を起こす(庄内の乱)などの御家騒動が起こる。このころの島津氏内部では、薩摩本国の反豊臣的な兄・義久と、前記庄内の乱に際しても大坂に留まり親豊臣あるいは中立に立つ義弘の間で、家臣団の分裂ないし分離の形がみられる。義弘に本国の島津軍を動かす決定権がなく、関ヶ原の戦い前後で義弘が率いたのは大坂にあった少数の兵士でしかなかった。

 

慶長5年(1600年)、徳川家康上杉景勝を討つために軍を起こすと(会津征伐)、義弘は家康から援軍要請を受けて1、000の軍勢を率い、家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。

しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、西軍総勢4万人の中で孤立した義弘は当初の意志を翻して西軍への参戦を決意した。

 

だが石田三成ら西軍首脳は、わずかな手勢であったことからか義弘の存在を軽視。美濃墨俣での撤退において前線に展開していた島津隊を見捨てたり、9月14日の作戦会議で義弘が主張した夜襲策が採用されなかったりするなど、義弘が戦意を失うようなことが続いたと言われているが、これは後世に書かれた『落穂集』という二次的な編纂物にしか記載されておらず、また島津方の史料にも夜討ちに関する記事がほとんど見えないことから、この逸話は史実だと断じることはできない。

 

関ヶ原の戦い島津義弘の陣跡は、岐阜県不破郡関ケ原町である。

9月15日の関ヶ原の戦いでは、参陣こそしたものの、戦場で兵を動かそうとはしなかった(一説にはこの時の島津隊は三千余で、松平・井伊隊と交戦していたとする説もある)。

三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請したが、「陪臣の八十島が下馬せず救援を依頼した」ため、義弘や甥の島津豊久は無礼であると激怒して追い返し、もはや完全に戦う気を失ったともにされている。

 

関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。その結果、この時点で300人まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。

この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのに銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。その際、旗指物、合印などを捨てて決死の覚悟を決意した。

 

島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破する。このとき正則は死兵と化した島津軍に逆らう愚を悟って無理な追走を家臣に禁じたが、福島正之は追撃して豊久と激戦を繰り広げた。

その後、島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。この撤退劇に対して井伊直政本多忠勝松平忠吉らが追撃したが、追撃隊の大将だった直政は重傷を負い忠吉も負傷した(直政はこのとき受けた傷がもとで後年病に倒れ、死去したとされている。また忠吉が負傷したのは開戦当初とする説もある)。しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。

 

このとき島津軍は捨て奸(すてかまり)と言われる、何人かをずつ留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。その結果、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが、後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦もあり、井伊直政松平忠吉の負傷によって東軍の追撃の速度が緩んだことや、家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。義弘主従は、大和三輪山平等寺に逃げ込んで11月28日まで70日間滞在し無事帰国した。無一文であった義弘主従は平等寺社侶たちからの援助によって難波の港より薩摩へと帰還する。その際に義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に帰還したという。生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。

 

(5)島津家の存続

 

薩摩に戻った義弘は、敗戦の痛手にもめげず薩摩領全土をあげて徳川からの討伐に対する武備を図る姿勢を取って国境を固める一方で、全身全霊を傾けて家康との和平交渉にあたる。ここで義弘は、和平交渉の仲介を関ヶ原で重傷を負わせた井伊直政に依頼した。この選択は賭でもあったが、頼られた直政は誠心誠意、徳川・島津の講和のために奔走している。また関ヶ原で島津勢の捨て身の攻撃を目のあたりにした福島正則の尽力もあったとも言われる。また一方で近衛前久が家康と親しい間柄と言うのもあり、両者の仲介に当たったといわれる。

 

慶長5年9月30日(1600年)、当主出頭要請を拒み軍備を増強し続ける島津家の態度に、怒った家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令。黒田、加藤、鍋島勢を加えた3万の軍勢を島津討伐に向かわせるが、家康は攻撃を命令できず睨み合いが続いた。

関ヶ原に主力を送らなかった島津家には1万を越す兵力が健在であり、戦上手の義弘も健在。もしここで長期戦になり苦戦するようなことがあれば家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがあった。

そのため徳川家は交渉で決着をつけようと島津家に圧力をかけていた最中、薩摩沖で幕府が国家運営で行っていた明との貿易船2隻が襲われ沈められると言う凶事が起きてしまう。この事件の黒幕は島津家とされており、もし武力で島津家を潰せば旧臣や敗残兵が海賊集団を結成し、貿易による経済的基盤の脅威になると言ういわば徳川家に対する脅しをかけたとされる。

こうした事態から家康は態度を軟化せざるを得ず11月12日、島津討伐軍に撤退を命令した。そして、慶長7年(1602年)に家康は島津本領安堵を決定する。

すなわち、「義弘の行動は個人行動であり、当主の義久および一族は承認していないから島津家そのものに処分はしない」また、義弘の処遇も「わし(家康)と義久は仲がいいので義弘の咎めはなしとする」とした。

まさに方便ともいうべき論法であるが、こうして島津氏に対する本領の安堵、忠恒(長男は夭折、次男・久保は文禄の役で陣没)への家督譲渡が無事承認された。

 島津を誅伐できなかった家康はこのことが心残りで、死に臨んで遺体を薩摩に向けて葬るように遺言を残したとされる。

 

(6)晩年

 

その後、大隅の加治木に隠居した。その後は若者たちの教育に力を注ぎ、元和5年7月21日(1619年)に同地で死去。享年85。このとき、義弘の後を追って13名の家臣が殉死している。

 

辞世の歌として、

「天地(あめつち)の 開けぬ先の 我なれば 生くるにもなし 死するにもなし」

「春秋(しゅんじゅう)の 花も紅葉も 留まらず 人も空しき 関路なりけり」

の2首が伝わっている。

 

(7)人物・逸話 

 

家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、「島津四兄弟」の結束は固く、微塵とも互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて、と義久を敬うこと終生変わらなかった。また敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。

祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。

許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。

義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には1人も出なかった。

義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている。

三ツ山城を攻めたときに重創を負いその湯治場として吉田温泉(えびの市)を利用して以来、島津家の湯治場として度々利用していたが、自身のみならず家臣らにも利用させた。

九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨国の領地を管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。そのお礼として、義弘は井上に島津姓と家紋を授けた。この井上が、島津製作所創始者・初代・島津源蔵の祖先であると島津製作所の歴史に記されている。

秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。

愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部の御経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。

武勇と実直な人柄から、福島正則ら武闘派の武将たちに大いに尊敬されていたようである。

若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。

弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎打ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死の勇戦を見せたという。 

また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。

慶長4年(1599年)、剃髪・入道し惟新斎と号したがこれは祖父・忠良の号・日新斎にあやかったものである。

木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にのみ従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。

晩年は体の衰えが顕著になり、1人で立ち歩き、食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣が昼食を摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声が聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き、1人で普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。

しかし義弘は大坂で人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという。

義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。

後で家臣が「大丈夫ですか?」と尋ねると「大丈夫だ。小姓どもは悪いことばかりして手を焼かせおる」と返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという。

なお、同じ内容の逸話が加藤嘉明にも存在するため、島津家か加藤家のどちらかが模倣した可能性が高い。

 

戦陣医術に詳しく、天正12年(1584年)10月1日から7日までの1週間にかけて、島津忠長と上井覚兼に対して金瘡医術の伝授を行い、秘伝の医書を与えている。金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のことである。                                             

 

おわり

歴史小噺とゲーテの知恵

歴史小噺とゲーテの知恵

                  

  • 人間は自らが愛する者によって、形づくられる            【ゲーテの知恵】

 

鳥居元忠徳川家康幼少のころからの忠臣であった。元忠は頑固で融通の利かない一徹物であったが、思いやりのある優しさもあった。

武田家の滅亡後、武田家重臣であった馬場信春の娘の情報が家康へ届いた。

〝信治の娘が逃げたそうだ〟

家康は元忠に「娘を見つけたらわしの部屋につれてくるように」と捜索を命じる。

元忠は百姓小屋の隅でうち震えている美しい女を見つけると、

「信春が娘か」

 と、問うた。

娘は色を失い。観念してこくりとうなずいた。 大抵の者は敵方に見つかれば否とうそをつくのが常道である。元忠はその正直者の可憐な娘をすっかり気に入ってしまった。

 元忠が娘の手足をしばりつけたときには、娘は観念してすっかり気を失ってしまった。それを薦(こも)でくるみその上を縄で縛って、

「館に連れて行き、わしの部屋にころがしておけ」と元忠は二人の家来に運ばせた。元忠は、

「馬場信治の娘は見つけ出したが殺して家来に埋めさせた」と、家康には報告した。

捜索は打ち切られた。

人の口には戸は立てられないものである。しばらくして、家康は元忠が誰にも知らせず。美人の娘を娶って極秘で結婚式を挙げたと聞いた。

家康は、早速元忠の館に出かけていった。

「わしとお前の仲じゃぞ。わしに知らせもせず、妻をめとるとは何たることぞ」

「殿とわしの中じゃこそ知らせなんだ。馬場信春の娘でござる。余りの美人にあっけに取られましてのう。殿に見つかれば、殿に女をすくわれますこと必定にござればのう。こっそり我が家に隠し申して結婚致した次第で……」

と元忠はにやりとした。それを聞いて家康は、

「今回は元忠にしてやられたわ。次回はそうはいかぬぞ」

と高笑いした。

それほど家康と元忠とは信頼しあった仲であった。

然し、何人もの女を囲っている家康である。元忠は女の面では家康を全然信用できなかったのだ。

終生妻と仲の良かった元忠は、心底馬場氏娘を主君家康に見つからずしてよかったと、ほっとするのであった。

同時に元忠は終生馬場氏娘以外の女は娶らなかった。

元忠と馬場氏娘の間には三男一女をもうけるほど仲が良かったという。

関ヶ原の戦いの寸前、家康は上杉征伐に出かけるため、一番信頼している元忠に伏見城をまかせて出かけた。

石田三成の西軍が伏見城の軍の二十倍以上の軍勢で押し寄せた。元忠の最後は家康軍を逃がすために、伏見城に立て籠もり西軍の盾になって討死を遂げた。

「我、ここにて天下の勢を引き受け、敵の百分の一にも対し難き人数をもって防ぎ戦い、殿のお役に立って目覚ましく討死せん。最後のご奉公じゃ」

 

  •  知とともに疑いは育つ 

            【ゲーテの知恵】                    

           

将軍徳川吉宗の目安箱には誰でも投稿ができる。

投書は住所・氏名記入式で、それの無い訴状は破棄された。箱は鍵が掛けられた状態で江戸城辰ノ口の評定所前に毎月二日、十一日、二十一日の月三回設置され、回収された投書は将軍自らが検分した。

最初吉宗は、幕閣であろうと町人や百姓に至るまで要望や不満を将軍吉宗に直訴させた。

「私でも殿への批判を投書できるわけですか」

 有馬は苦笑いを噛みしめながら吉宗に言った。

 有馬は直接吉宗に上申できる、最も信頼している側役の一人である。

「なるほど、有馬にも直接わしに言えぬ不満があるというか。どのような批判をわしにすることか楽しみなことじゃ」

「殿ならそのように下々の批判を楽しむことができましょうが、周りの幕閣仲間の間ではそうはいきませぬぞ。仲間同士の中でうずいた不平不満が直接殿の耳に入るのですから、心穏やかではありませぬ。仲間同士の間で言いたいことも言えず、いがみ合うことになるのも良くないことです」

「私なども部下の批判が恐ろしくなっては殿にはっきり物も申せず、ご政道が進みませぬ」

「なるほどのう、それも通りじゃ」

吉宗の側役の有馬氏倫のように上の地位にあるものは、部下の批判が自分を飛び越して上司の耳に届くのは困ると、戦々恐々としだした周りの様子を見ながら吉宗に上申した。

とはいえ、訴状によって小石川に養生所が設置されたり、江戸市中防火方針が決定されたりした。

良い制度もたくさん採り入れられた。

しかし、吉宗は発足二年で有馬の考えを入れて、百姓町人以外の者の目安箱への投書を禁じた。

 それからは大半が下っ端役人の不正、不満の訴えばかりで、将軍の介入できるものはなく、どうにもならぬことばかりのようになり、あまり役立たないようであった。

田沼意次の時代には、いったん実質的に廃止状態となったが文化年間に復活して、明治六年ごろまでは制度としては残っていたが、明治新政府により正式に廃止となった。

              

  • 自由に呼吸するだけでは、生きているとは言えません。          

ゲーテの知恵】

 

 万葉の時代からあった恋、今に続く恋。愛がなくて恋があったということに、何か不思議を感じます。 

万葉時代の人間に「愛」の心がないわけではないが総て「恋」がつかわれているのである。「愛」は人間の心情に使われるよりは神の愛とか仏の愛として使われた方が似合うように思われる。

 現代でも、「愛」のほうが高級であり「恋」のほうが情的にやや軽いように感じられる。これはやはり仏教やキリスト教の影響であろう。であるから、現代文学作品にはその微妙な違いをかぎ分けて同じ程度の頻度でつかわれているのではなかろうか。

 

 

  • 人間は努力する限り過ちを犯すものだ

             【ゲーテの知恵】       

寛政五年陸奥国の根岸村の商家の後家が惨殺される事件がおきた。

犯人は一時入り婿の待遇を受けていた番頭の長松であったが、後家とうまくいかず、解雇された上追い出されたのを恨みに思い、後家を殺害して金を持ち出して、逃げた。

殺された後家の息子の善三は江戸に出て剣道の修行をし、寛永十三年浅草観音の境内で長松にひょっこり出合い、仇討ちをしてしまった。

ところが善三は仇討ち無届の上、いったん入り婿になっていた長松は善三の継父になっていたのであるのを殺したのであるから、継父殺しで重罪になるのである。

しかし役人は長松をあくまでも雇い人として処理し、善三を立派な仇討として認めてやったのである。

 

  • 我々は知っているものしか目に入らない

ゲーテの知恵】

    

 日本には古代中国から伝わった様々な文化が存在しているが、昨年中国メディアで掲載された記事で、京都を「日本に盗み去られた中国の古都」と称して、その有り様はまさに中国唐朝の都市「洛陽」そのままであると説明していた。

 記事は、河南省洛陽市が古代中国の複数の王朝によって都とされた都市であり、またかつて栄華を極めたものの、多くの戦火により損傷を受けたため、現在はかつての面影はないと説明。しかし、「洛陽は実は日本にも存在している」とし、それは千年以上の歴史を誇る京都であると紹介していた。

 記事は京都について、日本が千年以上前に中国の洛陽をまねて建造した都市だと説明。本来は「長安」と「洛陽」の二つの都市を建造する計画だったが、洛陽の部分だけが建造されたものが京都であると紹介した。

 さらに京都の都市デザインは中国の唐朝とほとんど同じであるとし、「千年の時が経過した現在でも、洛陽の風光は優雅に存在している」と京都を絶賛。また多くの中国人が憧れる唐朝の古都がここにあると説明し、まるでタイムスリップしたかのような錯覚さえ起こさせると表現していた。

 また記事は山水のある京都の美しい景色は訪れる人の心を本当に楽しく、落ち着かせると絶賛したが、京都のあちこちで「洛陽」の漢字を見かけることができるという点も紹介。 

洛水と名付けられた抹茶が販売されているほか、洛食という名で食事を提供しているレストランも多いと説明。洛BUS、洛禅などの名を冠するサービスも存在すると紹介した。

「日本に盗み去られた中国の古都」という記事の表現には、古代日本が中国の古都を模倣したことに難癖をつけようとする趣旨は一切含まれていない。むしろ記事が強調しようとしているのは、京都がまさに古代中国の洛陽のいわば《生き写し〙であり、千年という気の遠くなるような年月のなかでも、日本が中国人にとっても値の付けようがない宝ともいえるこの都市を失わずに保存してきたことを絶賛している。

 

  • 君の胸から出たものでなければ、人の胸をひきつけることは決してできない。        

ゲーテの知恵】 

             

慶長五年細川忠興の夫人ガラシャがこの世を去った。

石田三成が挙兵し、関ヶ原の合戦が始まる直前であった。

石田方に包囲された大阪の細川屋敷ここに、ガラシャは人生を閉じたのである。

しかし、なぜ彼女は死んでしまったのか。

逃れる道はあったのだ。

それなのに何故死を選択したのか。

彼女は本能寺で信長を討った明智光秀の娘であった。

逆審の娘という汚名を背負った妻。

しかし忠興は女神のように彼女を愛していたのだ。

忠興は妻にぞっこん惚れこんでいたのだ。

だが彼女はそんな夫の過剰愛がうっとうしいものだった。

私だってほかの男の人が好きになります。

惚れることもあります。

これが彼女の本音であった。

そして自らの究極の愛の対象として、キリストを求めたのである。

キリストならば夫も干渉はできない。当然逃れられた大阪屋敷からあえて脱出しなかったガラシャ夫人。

彼女はこうしてキリストのもとへと旅立った。

 

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の

  花も花なれ 人も人なれ

 

彼女の死を知らされた忠興は一言。

オオ、マイ、ゴット。とつぶやいた。

 

  • 人生において重要なのは生きることであって、

生きた結果ではない。

           【ゲーテの知恵】

 

 良寛の晩年の楽しみは、彼を師と慕う貞心尼との歌のやりとりだったという。
 良寛危篤の知らせを受けた貞心尼は急ぎ駆けつけた。
 臨終までの一週間、心を尽くして良寛の世話をした。
 その間、二人は歌を詠み交わした。

 良寛は自分の作ではないが今の心境をあらわしているとして次のような歌を詠んだ。

 裏を見せ 表を見せて 散る紅葉
 自分の心境をひらひらと裏も表も見せて散っていく紅葉に例えている。
 死に行く自分のことでもあり、「裏を見せ表を見せ」というのは四十歳年下の貞心尼に自分の裏も表も何一つ隠さず見せてきたことを語っているのであろう。 

 

  • 愛は支配しない。愛は育てる

              【ゲーテの知恵】

一向一揆

一五三二年六月半ば、本願寺十世証如(しょうにょ)の率いる門徒兵は河内飯盛城を攻撃していた大和の筒井順慶、畠山義宣の軍勢を撃砕したときは二万人の同勢であったが、それから「波阿弥陀仏」を大書した幟を林立させた軍勢は勢いを増し、人数も定かでないほどの大群衆になっていった。

 親鸞蓮如と歴代の宗主が、諸国の武士、領主に門徒が敵対することを、固く禁じてきたはずであったが、戦国の世になって、教団全体が一個の大きな社会勢力になって、成長していったのである。

しかも、南無阿弥陀仏と仏に祈りさえすれば、人を殺そうが、人のものを強盗しようが人間の悪の根源までもがすべて許されるというのだから、仏の力は人間にとってまことに都合の良いものになっていた。

人間がいかなる悪に染まろうと、南無阿弥陀仏と祈ることによって帳消しになるという、まこと、仏は人間にとって都合の良いものになり下がってしまった。まるで現代の新興宗教の一種が思い出される。

大勢の門徒を内包した坊主たちは、人を殺す血濡れた武器を持って諸国大名に立ち向かったのである。

今まで朝から晩まで苦労して働いてもその日の食料も食することができないほど大変であった農民は旗を振りかざして群れを作り坊主大名について歩いているだけで、今まで威張りたくっていた領主や有り余っていた金持ちの金品を強盗し、人を殺しても南無阿弥陀仏と仏に祈ればけりがつく、死んでも極楽に行けるというのだから、農民にとってこんなうまい話はないのである。

しかも、中には戦場で仕える主人を亡くした浪人たちまで混じっている。鬼に金棒である。

こんな手合いを敵に回したら信長でさえ手を焼くのは当たり前、相手には武器がある上に仏がついているのである。

 

浄土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的自治一揆である。

本願寺派に属する寺院、道場を中心に、蓮如がいう「当流の安心は弥陀如来の本願にすがり一心に極楽往生を信ずることにある」という教義に従う土豪的武士や、自治的な惣村に集結する農民が地域的に強固な信仰組織を形成していた。一揆はかくのごとき、仏を中核に持った力強い一揆であった。

一四八八年(長享二年)、加賀守護富樫政親を滅ぼすことでその勢力を世に知らしめる。戦国時代末期、織田信長などによって鎮圧されるまでは各地に安定した豊かな町が築かれたのであった。            

 

  • ある種の欠点は、個性の存在にとって必要である。【ゲーテの知恵】

 

タバコを嫌った家康

慶弔一四年(一六〇九)の五月、京都、茨組と皮袴組七四人が、いもづる式に逮捕された。

茨組の首領は左門、正体不明、やたらと人に喧嘩をふっかける。

皮袴組は豪傑ぞろいで、けんかやもめ事を引き受けることで、祇園や島原をのし歩いていた。

京都所司代は一斉検挙に踏み切ったが吟味したところ,両組とも頭株の五、六人以外は罪がないことがわかり、頭株、五、六人を三条河原で見せしめに斬首、他の者には無罪を言い渡して釈放したが、分かったことは、たばこ欲しさに加入していたことがわかった。

タバコがキリシタンによって、日本に持ち込まれたのは、一五七三年から一五九一年の初めのことであったが、物珍しさもあって、タバコの葉一枚が銀三匁で売買されたという。

タバコのキャッチフレーズは、

1、虫歯に効く

2、切り傷の出血が止まる

3、梅毒に良い

4、飲めば体内の毒を下す

 であった。

 

タバコの飲みすぎが原因とみられる頓死が目立つようになったのは一六〇八年頃からであった。

関ケ原の合戦で勝利を得た家康は利長が勘兵衛の説得で東軍についたことを覚えていた。

家康はいずれ役に立つ男と見込んで勘兵衛を一万五千石の大名に取り立てた。ところ関ケ原の合戦で勝利を得た家康は利長が勘兵衛の説得で東軍についたことを覚えていたのだ。ところが勘兵衛はタバコが原因で頓死した。報告を受けた家康は、

「勘兵衛はいくつであったか?」

「五十六歳と聞いております。」

「わしより十一も若いではないか、タバコ好きでなければ、まだまだ長生きできたであろうに、惜しい男をなくした」

と、しきりに残念がった。        以上

 

  • 知ることだけでは充分ではない、それを使わないといけない。やる気だけでは充分ではない、実行しないといけない。【ゲーテの知恵】

 

 林子平幕臣に生まれ、長崎に三度も遊学し夢中で勉強した。学究肌の彼は海外事情にも詳しくなり、北辺の脅威に鋭い危機感を抱くようになり、貧苦の中で解剖の書『開国兵談』『三国通覧図説』を表した。

 特に、『開国兵談』には全精魂を込めて執筆し、寛政三年には一六巻完成した。

 しかし、世は松平定信寛政の改革に突入していた。寛政四年には、其の苦心の版木を幕府に没収され子平は蟄居の身となった。

 学問だけに打ちこんできた子平には肉親も仲間も友達でさえも誰もいなかった。

 

 親もなし妻なし子なし板木なし

     金もなければ死にたくもなし

 

 林子平は幽閉中に悶死した。

 

  • 我々はつねに、自らを変え、再生し、若返ら 

 せなければならない。さもなくば、凝り固まってしまう。【ゲーテの知恵】

 

天明の大震災では浅間山の大噴火に凶作の被害が重なって、餓死者四十万人とも五十万人とも言われた。

 孝吉は溶岩が流れ出て、廃墟になった家々の周りを歩いていた。

 家並みが崩れてしまって以前の家並みの姿はどこにも残っておらず、所々にみすぼらしく落ち込んだ人の姿が呆然として立ちすくんでいたり、座り込んでいる人がポツンポツンと見えるのみであった。孝吉はその中にボロボロの着物を着て、埋もれるようにうずくまって泣いている人を見た。

 顔は泥と涙で真っ黒に汚れていた。

 孝吉は手拭いを出すと水にひたし、女の顔を丁寧に拭ってやった。

淀んだ空気の中にそこだけパッと光を浴びたように美しい女の顔が浮かんだ。孝吉ははっとして、息が詰まった。

「君の名は?」

「みよ」

「ぼくは孝吉。きみに一目ぼれしてしまった」

「わたしも……」

「どうも二人ともひとりぼっちのようだ。今後助け合って生きていこう」

陰惨なニュースの中、鎌原村の自力更生は何もかも失くしてしまった中で、この若い二人から始まった。

鎌原村の廃墟での婚礼は、この二人に希望をたくした村民の呼びかけで七組も集まった。

廃墟の婚礼は七組同時に行われることになり、明るいニュースは村全体に伝わった。  

村全体から集まった祝いの品は、

「古い三つ組盃、古へぎ(へぎ板)五枚、古ちょうし一、酒一斗一升入り、古皿五つ、差ぐし(挿す櫛)七枚、肴はありあわせであった」

ほほえましい品々であったが、七組の結婚式は盛大にとり行われ、その後の村の復興に大きな勇気を与えたのであった。

                      以上

 

 

日本人物歴史物語4

日本人物歴史物語4

ー 教科書に出てくる歴史人物物語ー

             

南北朝時代

1324年(正中の変後醍醐天皇

幕府を打つが失敗。

1331年(元弘の乱)再び後醍醐天皇、同じ計画で失敗。

      後醍醐天皇隠岐に流される。

1332年 後醍醐天皇隠岐を脱出。

      新田義貞鎌倉幕府を滅ぼす

1334年 後醍醐天皇による肩部の申請が

始まる。

1935年 足利尊氏新田義貞を打つこと

を願い出る

      朝廷は逆に新田義貞に命じて足

利尊氏を打つことを命じる。

1336年 足利尊氏京都を逃れて九州へ。

      足利尊氏九州から京都に攻める。

尊氏と新田義貞楠木正成の乱戦。

楠木正成戦死。

尊氏京都で新しい政治を始める。

 《室町時代

      足利尊氏征夷大将軍となる

……………………

涙の戦乱謳歌  

 

 足利高氏(尊氏)は、庭にたたずみ遠くの山並みを見つめていた。

 父が愛した豊かな農村の風景がすっぽりと高氏を包んで離さず、父を亡くした悲しみの心を徐々に癒してくれていた。

 父が亡くなったのは昨日であった。しかし、もうずっと昔に亡くなったような虚無感を高氏に与えていた。

 父貞氏は栃木県足利の荘の領主で足利殿とよばれて地域の農民にまで敬われていた。

「兄上、ここにおられましたか。」

高氏は弟の直義の声を聞くと、慌てて涙をぬぐった。

「ここから見る風景は、幼い頃からどんな時でも、心が癒されるのだよ」

「兄さんもそうでしたか。私もこののどかな風景を見ているとご褒美を頂いたような嬉しい気もちになるのですよ」

「ほう、これは二人にとって、素晴らしい景色なのじゃのう」

「いろいろな思い出が詰まっていて、手繰り寄せられるようでのう」

「はや馬が着いたのではないか」

「鎌倉からの使者でございました」

「何じゃ。また出陣の命令か」

「はい」

「もう出陣は嫌じゃ。夢のぶち壊しじゃ」

「兄上としてはお気の弱いことを」

正中の変)(元弘の乱)以来の鎌倉の足利幕府と京都の険悪な事情をよく知っている弟は言葉を濁した。

「戦いを望まねば生きてはいけぬか」

 高氏は今故郷を出ればすっぱりと父も故郷も忘れ去らねばならぬと考えていた。

 高氏はせめて父の四十九日までは出陣を伸ばしたかった。

 しかし、出陣を伸ばせば幕府は高氏に疑いの目を向けるに違いなかった。

 高氏は疑われたくなかった。幕府を温存して父の夢を果たしたかった。

 父は死ぬ前に、高氏・直義兄弟を前に、

「二人ともよく聞け、足利の家は、〝必ずや、天下を取る〟という、言い伝えがある。わしは八幡大菩薩にわしの命を縮めても、今から三代のうちに天下を取ることを、お約束ください。」

と言って八幡大菩薩に祈った。

そして、お腹を召されたということだ。

「これはきつい遺言じゃ。もう高氏などなくなってしまったわ。今からは尊氏じゃ」

足利氏は源義家の子孫で源氏の嫡流でもある家柄であったのだ。

この遺言は尊氏にとって重かった。

後醍醐天皇の幕府を倒す計画は、【正中の変】でも【元弘の乱】でも失敗していた。後醍醐天皇はその地位から降ろされ、幕府によって光厳天皇天皇にたてられていた。

とうとう北朝南朝ができたのである。

後醍醐天皇天皇の地位から下ろされ、幕府によって高厳天皇がたてられるに至った。

しかし、戦乱は終わっていなかった。

一三三二年になると楠木正成幕府軍のこもる赤坂の城を襲った。赤坂城を奪い返すと摂津天王寺に軍をすすめた。それを知った六波羅ではすぐに天王寺に軍をすすめた。だが戦上手な正成は、六原の軍勢を蹴散らし金剛山に引き上げた。

金剛山には正成の築いた千早城があった。

 

 

日本人物歴史物語3

日本人物歴史物語3

ー 教科書に出てくる歴史人物物語ー

              

南北朝時代

1324年(正中の変後醍醐天皇

幕府を打つが失敗。

1331年(元弘の乱)再び後醍醐天皇、同じ計画で失敗。

      後醍醐天皇隠岐に流される。

1332年 後醍醐天皇隠岐を脱出。

      新田義貞鎌倉幕府を滅ぼす

1334年 後醍醐天皇による肩部の申請が

始まる。

1935年 足利尊氏新田義貞を打つこと

を願い出る

      朝廷は逆に新田義貞に命じて足

利尊氏を打つことを命じる。

1336年 足利尊氏京都を逃れて九州へ。

      足利尊氏九州から京都に攻める。

尊氏と新田義貞楠木正成の乱戦。

楠木正成戦死。

尊氏京都で新しい政治を始める。

 《室町時代

      足利尊氏征夷大将軍となる

……………………

涙の戦乱謳歌  

 

 足利高氏(尊氏)は、庭にたたずみ遠くの山並みを見つめていた。

 父が愛した豊かな農村の風景がすっぽりと高氏を包んで離さず、父を亡くした悲しみの心を徐々に癒してくれていた。

 父が亡くなったのは昨日であった。しかし、もうずっと昔に亡くなったような虚無感を高氏に与えていた。

 父貞氏は栃木県足利の荘の領主で足利殿とよばれて地域の農民にまで敬われていた。

「兄上、ここにおられましたか。」

高氏は弟の直義の声を聞くと、慌てて涙をぬぐった。

「ここから見る風景は、幼い頃からどんな時でも、心が癒されるのだよ」

「兄さんもそうでしたか。私もこののどかな風景を見ているとご褒美を頂いたような嬉しい気もちになるのですよ」

「ほう、これは二人にとって、素晴らしい景色なのじゃのう」

「いろいろな思い出が詰まっていて、手繰り寄せられるようでのう」

「はや馬がきていたのではないか」

「鎌倉からの使者でございました」

「何じゃ。また出陣の命令か」

「はい」

「もう出陣は嫌じゃ。ぶち壊しじゃ」

「兄上としてはお気の弱いことを」

正中の変)(元弘の乱)以来の鎌倉の足利幕府と京都の険悪な事情をよく知っている弟は言葉を濁した。

「戦いを望まねば生きてはいけぬか」

 高氏は今故郷を出ればすっぱりと父も故郷も忘れねばならぬと考えていた。

 高氏はせめて父の四十九日までは出陣を伸ばしたかった。

 しかし、出陣を伸ばせば幕府は高氏に疑いの目を向けるに違いなかった。

 高氏は疑われたくなかった。父の夢を果たしたかった。

 父は死ぬ前に、高氏・直義兄弟を前に、

「二人ともよく聞け、足利の家は、〝必ずや、天下を取る〟という、言い伝えがある。わしは八幡大菩薩にわしの命をちぢめて、今から三代のうちに天下を取ることを、お約束ください。」

と言って八幡大菩薩とお約束した。

そして、お腹を召されたということだ。

「これはきつい遺言じゃ。もう高氏などなくなってしまったわ。今からは尊氏じゃ」

足利氏は源義家の子孫で源氏の嫡流でもある家柄であった。

後醍醐天皇の幕府を倒す計画は、正中の変でも元弘の乱でも失敗していた。後醍醐天皇はその地位から降ろされ、幕府によって光厳天皇天皇にたてられた。

とうとう北朝南朝ができたのである。