人生の交差点

 人生の交差点

                    

 1・ 信長

 

 この世に生まれた人間は、皆自分の意志に従って目の前に無数に表れる交差点を自由自在に進んでいく…。そして最後に「是非に及ばず」と死に到着するのである。

 歴史上の人物で日本人に一番の人気者は信長であり、信長は「是非に及ばず」と、若干50才で納得して死にのぞみました。

信長には、男児十一人、女子十人の子宝に恵まれました。 ( この他に養女が二人いるが、実子ではないのでここには含めていない。) この時代、姫たちは敵国へ同盟の証として嫁入りさせられる政略結婚が多かったが、信長は信頼している同盟国(徳川)や自分の家臣や公家に嫁がせている。 政略結婚の場合、いつ自分の実家が敵国になるか分からない。 そのようなことで苦しむことがないように、信長は娘たちが安心して幸せに暮らせるように色々配慮しました。

 現代人が信長にあこがれるのは、やはり思いのまま生き、さっぱりと死んでいった信長への羨望からなのでしょうか。

 

 2・ 徳川光圀

 

 旅をしながら悪人の成敗をする。水戸黄門の話が好きでわたしはよく映画を見ます。

 黄門さんと助さん、格さんの発展抜刀の働き、あれはすべて後世の人が作った楽しいお話です。

 1628年生まれの水戸光圀水戸藩の第二代藩主となった時代の水戸藩は、年貢を納めない者には拷問を行うなどの圧政が続き、藩内で農民一揆が頻発した時代でした。

 しかし光圀は、蝦夷探検と海外貿易を推進するために幕府から1万両の借金をして巨大な船を建設し藩の財政を圧迫しました。

 それでも光圀の未来への行動力は止まらず、 日本国の歴史を描いた歴史書大日本史』の編纂のため、全国から学者を集めた。

 その費用は何と藩の財政の4ぶんの1にも達したのである。

 『大日本史』は尊王思想を説いたもので、これが水戸藩尊王派の中心的存在になった理由である。

 この書があるため、9代藩主斉昭(なりあき)の時代には吉田松陰高杉晋作などの多くの尊王志士が水戸藩を訪れている。その際に水戸藩は光圀の偉大さを宣伝し、光圀が隠居生活を送ったあまりに質素な西山荘の佇まいを見て、志士たちは感動したといいます。

 

 3・名城熊本城

 

 昨年改築され、現代も名城として有名な熊本城は元は中世に茶臼山丘陵に建てられた千葉城と同じ山城でありました。これらの城を参考に加藤清正が1603年から6年間かけて完成したのです。

清正流という大城郭を整えた熊本城が出来上がりました。清正流と呼ばれる石積みで造られた石垣の上に御殿、大小の天守閣が建てられ、大名の城としては日本一だと言われました。

 熊本城は銀杏城という別名がありますが、それは築城が完成した後、清正が天守閣の前に銀杏の木を2本植えて、この銀杏が天守閣と同じ高さになったとき乱が起こると予言したことによります。

 そして銀杏の木が天守閣と同じ高さになったとき、清正の予言通り重大事件が起こったのです。

 1877年(明治10年2月15日)に西南戦争が起こると西郷隆盛の軍が鹿児島から北上して22日に熊本城を包囲しました。

 西郷は熊本城を守るのは百姓・町人だからすぐに陥落すると考えていました。

 しかし熊本城の司令長官・谷(たに)干(たて)城(き)が指揮する兵は百姓・町人で編成されていたものの堅牢で攻めにくい城のです。ですから、約50日間も籠城して、応援に駆け付けた政府軍によって西郷軍は敗北し、鹿児島まで敗走し、西郷軍は城山で玉砕したのです。

 

 4・真田一族 

 

 真田幸村は小説やテレビによく登場する人気のある人物です。

 10年ほど前に、光武さんと三重県の津市から交代運転で鹿児島まで車で行ったことがあります。  

その時、ちょうど真田家がテレビでも放映されていた時期で山の中から海岸線まで沢山の真田家の旗がひらめいていたのでした。

 歴史をひも解くと関ヶ原の合戦直前、真田昌幸と二人の息子信之、幸村は共に徳川家康の軍に加わって会津の上杉を攻める戦いに参加していました。その戦いの中で石田三成からの密書が届きました。家康を打倒するための挙兵を告げるものでした。

 これに対して真田家の家族会議が開かれました。ドラマではこの場では兄弟の激論が展開され信之だけが家康の側につくことになります。真田の家計を残すためと信之が家康の家臣であり、徳川家の重臣本田忠勝の娘を家康の養女にしたうえで嫁にもらっていたからです。

 信之は徳川秀忠に従って関ケ原に進んだが途中、父と幸村の立てこもる上田城を攻めることになります。籠城戦になり、上田城はそのままにして、秀忠と関ヶ原に向かいました。

 徳川軍の勝利に終わり西軍に付いた父昌幸と幸村は断首であったが、兄信幸は自分の恩賞と引き換えに父と弟の助命を嘆願しました。

 父と弟は命を取り留

めましたが九度山に流

刑となりました。

 兄信之は上田城城主

となって、真田氏の名

は明治まで残りました。以上