歴史小噺とゲーテの知恵
歴史小噺とゲーテの知恵
- 人間は自らが愛する者によって、形づくられる 【ゲーテの知恵】
鳥居元忠は徳川家康幼少のころからの忠臣であった。元忠は頑固で融通の利かない一徹物であったが、思いやりのある優しさもあった。
武田家の滅亡後、武田家重臣であった馬場信春の娘の情報が家康へ届いた。
〝信治の娘が逃げたそうだ〟
家康は元忠に「娘を見つけたらわしの部屋につれてくるように」と捜索を命じる。
元忠は百姓小屋の隅でうち震えている美しい女を見つけると、
「信春が娘か」
と、問うた。
娘は色を失い。観念してこくりとうなずいた。 大抵の者は敵方に見つかれば否とうそをつくのが常道である。元忠はその正直者の可憐な娘をすっかり気に入ってしまった。
元忠が娘の手足をしばりつけたときには、娘は観念してすっかり気を失ってしまった。それを薦(こも)でくるみその上を縄で縛って、
「館に連れて行き、わしの部屋にころがしておけ」と元忠は二人の家来に運ばせた。元忠は、
「馬場信治の娘は見つけ出したが殺して家来に埋めさせた」と、家康には報告した。
捜索は打ち切られた。
人の口には戸は立てられないものである。しばらくして、家康は元忠が誰にも知らせず。美人の娘を娶って極秘で結婚式を挙げたと聞いた。
家康は、早速元忠の館に出かけていった。
「わしとお前の仲じゃぞ。わしに知らせもせず、妻をめとるとは何たることぞ」
「殿とわしの中じゃこそ知らせなんだ。馬場信春の娘でござる。余りの美人にあっけに取られましてのう。殿に見つかれば、殿に女をすくわれますこと必定にござればのう。こっそり我が家に隠し申して結婚致した次第で……」
と元忠はにやりとした。それを聞いて家康は、
「今回は元忠にしてやられたわ。次回はそうはいかぬぞ」
と高笑いした。
それほど家康と元忠とは信頼しあった仲であった。
然し、何人もの女を囲っている家康である。元忠は女の面では家康を全然信用できなかったのだ。
終生妻と仲の良かった元忠は、心底馬場氏娘を主君家康に見つからずしてよかったと、ほっとするのであった。
同時に元忠は終生馬場氏娘以外の女は娶らなかった。
元忠と馬場氏娘の間には三男一女をもうけるほど仲が良かったという。
関ヶ原の戦いの寸前、家康は上杉征伐に出かけるため、一番信頼している元忠に伏見城をまかせて出かけた。
石田三成の西軍が伏見城の軍の二十倍以上の軍勢で押し寄せた。元忠の最後は家康軍を逃がすために、伏見城に立て籠もり西軍の盾になって討死を遂げた。
「我、ここにて天下の勢を引き受け、敵の百分の一にも対し難き人数をもって防ぎ戦い、殿のお役に立って目覚ましく討死せん。最後のご奉公じゃ」
- 知とともに疑いは育つ
【ゲーテの知恵】
将軍徳川吉宗の目安箱には誰でも投稿ができる。
投書は住所・氏名記入式で、それの無い訴状は破棄された。箱は鍵が掛けられた状態で江戸城辰ノ口の評定所前に毎月二日、十一日、二十一日の月三回設置され、回収された投書は将軍自らが検分した。
最初吉宗は、幕閣であろうと町人や百姓に至るまで要望や不満を将軍吉宗に直訴させた。
「私でも殿への批判を投書できるわけですか」
有馬は苦笑いを噛みしめながら吉宗に言った。
有馬は直接吉宗に上申できる、最も信頼している側役の一人である。
「なるほど、有馬にも直接わしに言えぬ不満があるというか。どのような批判をわしにすることか楽しみなことじゃ」
「殿ならそのように下々の批判を楽しむことができましょうが、周りの幕閣仲間の間ではそうはいきませぬぞ。仲間同士の中でうずいた不平不満が直接殿の耳に入るのですから、心穏やかではありませぬ。仲間同士の間で言いたいことも言えず、いがみ合うことになるのも良くないことです」
「私なども部下の批判が恐ろしくなっては殿にはっきり物も申せず、ご政道が進みませぬ」
「なるほどのう、それも通りじゃ」
吉宗の側役の有馬氏倫のように上の地位にあるものは、部下の批判が自分を飛び越して上司の耳に届くのは困ると、戦々恐々としだした周りの様子を見ながら吉宗に上申した。
とはいえ、訴状によって小石川に養生所が設置されたり、江戸市中防火方針が決定されたりした。
良い制度もたくさん採り入れられた。
しかし、吉宗は発足二年で有馬の考えを入れて、百姓町人以外の者の目安箱への投書を禁じた。
それからは大半が下っ端役人の不正、不満の訴えばかりで、将軍の介入できるものはなく、どうにもならぬことばかりのようになり、あまり役立たないようであった。
田沼意次の時代には、いったん実質的に廃止状態となったが文化年間に復活して、明治六年ごろまでは制度としては残っていたが、明治新政府により正式に廃止となった。
- 自由に呼吸するだけでは、生きているとは言えません。
【ゲーテの知恵】
万葉の時代からあった恋、今に続く恋。愛がなくて恋があったということに、何か不思議を感じます。
万葉時代の人間に「愛」の心がないわけではないが総て「恋」がつかわれているのである。「愛」は人間の心情に使われるよりは神の愛とか仏の愛として使われた方が似合うように思われる。
現代でも、「愛」のほうが高級であり「恋」のほうが情的にやや軽いように感じられる。これはやはり仏教やキリスト教の影響であろう。であるから、現代文学作品にはその微妙な違いをかぎ分けて同じ程度の頻度でつかわれているのではなかろうか。
- 人間は努力する限り過ちを犯すものだ
【ゲーテの知恵】
寛政五年陸奥国の根岸村の商家の後家が惨殺される事件がおきた。
犯人は一時入り婿の待遇を受けていた番頭の長松であったが、後家とうまくいかず、解雇された上追い出されたのを恨みに思い、後家を殺害して金を持ち出して、逃げた。
殺された後家の息子の善三は江戸に出て剣道の修行をし、寛永十三年浅草観音の境内で長松にひょっこり出合い、仇討ちをしてしまった。
ところが善三は仇討ち無届の上、いったん入り婿になっていた長松は善三の継父になっていたのであるのを殺したのであるから、継父殺しで重罪になるのである。
しかし役人は長松をあくまでも雇い人として処理し、善三を立派な仇討として認めてやったのである。
- 我々は知っているものしか目に入らない
【ゲーテの知恵】
日本には古代中国から伝わった様々な文化が存在しているが、昨年中国メディアで掲載された記事で、京都を「日本に盗み去られた中国の古都」と称して、その有り様はまさに中国唐朝の都市「洛陽」そのままであると説明していた。
記事は、河南省洛陽市が古代中国の複数の王朝によって都とされた都市であり、またかつて栄華を極めたものの、多くの戦火により損傷を受けたため、現在はかつての面影はないと説明。しかし、「洛陽は実は日本にも存在している」とし、それは千年以上の歴史を誇る京都であると紹介していた。
記事は京都について、日本が千年以上前に中国の洛陽をまねて建造した都市だと説明。本来は「長安」と「洛陽」の二つの都市を建造する計画だったが、洛陽の部分だけが建造されたものが京都であると紹介した。
さらに京都の都市デザインは中国の唐朝とほとんど同じであるとし、「千年の時が経過した現在でも、洛陽の風光は優雅に存在している」と京都を絶賛。また多くの中国人が憧れる唐朝の古都がここにあると説明し、まるでタイムスリップしたかのような錯覚さえ起こさせると表現していた。
また記事は山水のある京都の美しい景色は訪れる人の心を本当に楽しく、落ち着かせると絶賛したが、京都のあちこちで「洛陽」の漢字を見かけることができるという点も紹介。
洛水と名付けられた抹茶が販売されているほか、洛食という名で食事を提供しているレストランも多いと説明。洛BUS、洛禅などの名を冠するサービスも存在すると紹介した。
「日本に盗み去られた中国の古都」という記事の表現には、古代日本が中国の古都を模倣したことに難癖をつけようとする趣旨は一切含まれていない。むしろ記事が強調しようとしているのは、京都がまさに古代中国の洛陽のいわば《生き写し〙であり、千年という気の遠くなるような年月のなかでも、日本が中国人にとっても値の付けようがない宝ともいえるこの都市を失わずに保存してきたことを絶賛している。
- 君の胸から出たものでなければ、人の胸をひきつけることは決してできない。
【ゲーテの知恵】
石田方に包囲された大阪の細川屋敷ここに、ガラシャは人生を閉じたのである。
しかし、なぜ彼女は死んでしまったのか。
逃れる道はあったのだ。
それなのに何故死を選択したのか。
彼女は本能寺で信長を討った明智光秀の娘であった。
逆審の娘という汚名を背負った妻。
しかし忠興は女神のように彼女を愛していたのだ。
忠興は妻にぞっこん惚れこんでいたのだ。
だが彼女はそんな夫の過剰愛がうっとうしいものだった。
私だってほかの男の人が好きになります。
惚れることもあります。
これが彼女の本音であった。
そして自らの究極の愛の対象として、キリストを求めたのである。
キリストならば夫も干渉はできない。当然逃れられた大阪屋敷からあえて脱出しなかったガラシャ夫人。
彼女はこうしてキリストのもとへと旅立った。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ
彼女の死を知らされた忠興は一言。
オオ、マイ、ゴット。とつぶやいた。
- 人生において重要なのは生きることであって、
生きた結果ではない。
【ゲーテの知恵】
良寛の晩年の楽しみは、彼を師と慕う貞心尼との歌のやりとりだったという。
良寛危篤の知らせを受けた貞心尼は急ぎ駆けつけた。
臨終までの一週間、心を尽くして良寛の世話をした。
その間、二人は歌を詠み交わした。
良寛は自分の作ではないが今の心境をあらわしているとして次のような歌を詠んだ。
裏を見せ 表を見せて 散る紅葉
自分の心境をひらひらと裏も表も見せて散っていく紅葉に例えている。
死に行く自分のことでもあり、「裏を見せ表を見せ」というのは四十歳年下の貞心尼に自分の裏も表も何一つ隠さず見せてきたことを語っているのであろう。
- 愛は支配しない。愛は育てる
【ゲーテの知恵】
一五三二年六月半ば、本願寺十世証如(しょうにょ)の率いる門徒兵は河内飯盛城を攻撃していた大和の筒井順慶、畠山義宣の軍勢を撃砕したときは二万人の同勢であったが、それから「波阿弥陀仏」を大書した幟を林立させた軍勢は勢いを増し、人数も定かでないほどの大群衆になっていった。
親鸞、蓮如と歴代の宗主が、諸国の武士、領主に門徒が敵対することを、固く禁じてきたはずであったが、戦国の世になって、教団全体が一個の大きな社会勢力になって、成長していったのである。
しかも、南無阿弥陀仏と仏に祈りさえすれば、人を殺そうが、人のものを強盗しようが人間の悪の根源までもがすべて許されるというのだから、仏の力は人間にとってまことに都合の良いものになっていた。
人間がいかなる悪に染まろうと、南無阿弥陀仏と祈ることによって帳消しになるという、まこと、仏は人間にとって都合の良いものになり下がってしまった。まるで現代の新興宗教の一種が思い出される。
大勢の門徒を内包した坊主たちは、人を殺す血濡れた武器を持って諸国大名に立ち向かったのである。
今まで朝から晩まで苦労して働いてもその日の食料も食することができないほど大変であった農民は旗を振りかざして群れを作り坊主大名について歩いているだけで、今まで威張りたくっていた領主や有り余っていた金持ちの金品を強盗し、人を殺しても南無阿弥陀仏と仏に祈ればけりがつく、死んでも極楽に行けるというのだから、農民にとってこんなうまい話はないのである。
しかも、中には戦場で仕える主人を亡くした浪人たちまで混じっている。鬼に金棒である。
こんな手合いを敵に回したら信長でさえ手を焼くのは当たり前、相手には武器がある上に仏がついているのである。
浄土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的自治、一揆である。
本願寺派に属する寺院、道場を中心に、蓮如がいう「当流の安心は弥陀如来の本願にすがり一心に極楽往生を信ずることにある」という教義に従う土豪的武士や、自治的な惣村に集結する農民が地域的に強固な信仰組織を形成していた。一揆はかくのごとき、仏を中核に持った力強い一揆であった。
一四八八年(長享二年)、加賀守護富樫政親を滅ぼすことでその勢力を世に知らしめる。戦国時代末期、織田信長などによって鎮圧されるまでは各地に安定した豊かな町が築かれたのであった。
- ある種の欠点は、個性の存在にとって必要である。【ゲーテの知恵】
タバコを嫌った家康
慶弔一四年(一六〇九)の五月、京都、茨組と皮袴組七四人が、いもづる式に逮捕された。
茨組の首領は左門、正体不明、やたらと人に喧嘩をふっかける。
皮袴組は豪傑ぞろいで、けんかやもめ事を引き受けることで、祇園や島原をのし歩いていた。
京都所司代は一斉検挙に踏み切ったが吟味したところ,両組とも頭株の五、六人以外は罪がないことがわかり、頭株、五、六人を三条河原で見せしめに斬首、他の者には無罪を言い渡して釈放したが、分かったことは、たばこ欲しさに加入していたことがわかった。
タバコがキリシタンによって、日本に持ち込まれたのは、一五七三年から一五九一年の初めのことであったが、物珍しさもあって、タバコの葉一枚が銀三匁で売買されたという。
タバコのキャッチフレーズは、
1、虫歯に効く
2、切り傷の出血が止まる
3、梅毒に良い
4、飲めば体内の毒を下す
であった。
タバコの飲みすぎが原因とみられる頓死が目立つようになったのは一六〇八年頃からであった。
関ケ原の合戦で勝利を得た家康は利長が勘兵衛の説得で東軍についたことを覚えていた。
家康はいずれ役に立つ男と見込んで勘兵衛を一万五千石の大名に取り立てた。ところ関ケ原の合戦で勝利を得た家康は利長が勘兵衛の説得で東軍についたことを覚えていたのだ。ところが勘兵衛はタバコが原因で頓死した。報告を受けた家康は、
「勘兵衛はいくつであったか?」
「五十六歳と聞いております。」
「わしより十一も若いではないか、タバコ好きでなければ、まだまだ長生きできたであろうに、惜しい男をなくした」
と、しきりに残念がった。 以上
- 知ることだけでは充分ではない、それを使わないといけない。やる気だけでは充分ではない、実行しないといけない。【ゲーテの知恵】
林子平は幕臣に生まれ、長崎に三度も遊学し夢中で勉強した。学究肌の彼は海外事情にも詳しくなり、北辺の脅威に鋭い危機感を抱くようになり、貧苦の中で解剖の書『開国兵談』『三国通覧図説』を表した。
特に、『開国兵談』には全精魂を込めて執筆し、寛政三年には一六巻完成した。
しかし、世は松平定信の寛政の改革に突入していた。寛政四年には、其の苦心の版木を幕府に没収され子平は蟄居の身となった。
学問だけに打ちこんできた子平には肉親も仲間も友達でさえも誰もいなかった。
親もなし妻なし子なし板木なし
金もなければ死にたくもなし
林子平は幽閉中に悶死した。
- 我々はつねに、自らを変え、再生し、若返ら
せなければならない。さもなくば、凝り固まってしまう。【ゲーテの知恵】
天明の大震災では浅間山の大噴火に凶作の被害が重なって、餓死者四十万人とも五十万人とも言われた。
孝吉は溶岩が流れ出て、廃墟になった家々の周りを歩いていた。
家並みが崩れてしまって以前の家並みの姿はどこにも残っておらず、所々にみすぼらしく落ち込んだ人の姿が呆然として立ちすくんでいたり、座り込んでいる人がポツンポツンと見えるのみであった。孝吉はその中にボロボロの着物を着て、埋もれるようにうずくまって泣いている人を見た。
顔は泥と涙で真っ黒に汚れていた。
孝吉は手拭いを出すと水にひたし、女の顔を丁寧に拭ってやった。
淀んだ空気の中にそこだけパッと光を浴びたように美しい女の顔が浮かんだ。孝吉ははっとして、息が詰まった。
「君の名は?」
「みよ」
「ぼくは孝吉。きみに一目ぼれしてしまった」
「わたしも……」
「どうも二人ともひとりぼっちのようだ。今後助け合って生きていこう」
陰惨なニュースの中、鎌原村の自力更生は何もかも失くしてしまった中で、この若い二人から始まった。
鎌原村の廃墟での婚礼は、この二人に希望をたくした村民の呼びかけで七組も集まった。
廃墟の婚礼は七組同時に行われることになり、明るいニュースは村全体に伝わった。
村全体から集まった祝いの品は、
「古い三つ組盃、古へぎ(へぎ板)五枚、古ちょうし一、酒一斗一升入り、古皿五つ、差ぐし(挿す櫛)七枚、肴はありあわせであった」
ほほえましい品々であったが、七組の結婚式は盛大にとり行われ、その後の村の復興に大きな勇気を与えたのであった。
以上