信長と家康
信長と家康
松平竹千代は天文11年12月26日、松平家8代目岡崎城当主松平広忠の長男として誕生した。
松平竹千代の生涯は子沢山で、11男5女をもうけている。
元和2年4月17日没。
享年、75歳であった。
ちなみに夢半ばで亡くなった信長は49歳で没、秀吉は62歳でなくなっている。
やはり長生きすることは、人間の生涯にとって、最高のことではないだろうか。
天文11年竹千代は、三河の国岡崎城(現在の愛知県岡崎市)で生まれた。
天文16年(西暦1547年)織田の総攻撃が始まり大量の軍勢を岡崎に責めてくるということを知って驚いた竹千代の父松平広忠は、今川に援軍を要請した。
しかし、今川も何の見返りもなしに援軍を送るはずもなく、「人質をよこせ」との返事が来た。
困った広忠は、可愛がっていた6歳になったばかりの長男の竹千代を駿府の今川に送った。
竹千代の警護役は戸田宗光であった。
宗光は今川に背くことなく忠誠を誓う、信頼のおける男だった。
ところが、戸田は竹千代を駿府に送るどころか、竹千代を奪い取り銭千貫文で織田信秀に竹千代を売り飛ばしたのであった。
織田家に連れてこられた竹千代は広縁にしょんぼり泣きながら座っていた。
その時狩りから帰ってきた竹千代を見咎めた織田家の長男、信長は、
「おい、お前はどこの坊主だ!」
竹千代は、毛をぼさぼさにして汚い装束をして刀を担いだ男を見てわっと泣き出した。
「泣くな、男のくせに。ホレこれをやるぜ。」と、今仕留めてきたばかりの血の滴り落ちる狸の死骸を板の上に投げた。
竹千代はびっくりして飛び上がり、大声で泣きだした。
驚いて飛び出してきた家来たちに、信長は、
「そーら今夜は旨い狸汁じゃ。運び去れ」
狸は家来たちによって、運び去られた。
縁でまだ泣いている竹千代の横にどっかりと座った信長は、
「おぃお前、男のくせにもう泣くな。男は泣かぬものじゃ。明日から儂がきたえてやるけに」
と、信長は笑って立ち去った。
翌朝から竹千代は信長にたたき起こされた。
庭で毎日のように取っ組み合い。
剣道で鍛えられた。
泣き虫竹千代も、鍛えられて。織田家で2年たったころ、竹千代の父広忠は家臣の謀反によって殺され、今川の元に身柄を移され、竹千代は今川の元で元服した。
竹千代は、次郎三郎元信となる。
数か月後、今川義元の姪、瀬名姫を娶る。
でかした。
長男竹千代の誕生。後の信康である。
数年後、元信は、性を松平から徳川に改名。
長男竹千代は家康に愛されたが、その後数奇な運命をたどる。
長男誕生から14年後、三方ケ原の戦い。
徳川軍は武田軍の侵攻に敗戦。大きな犠牲を出す。家康は「まだ死にたくわない。」
と、必死の思い出で帰城。
この時家康は馬上で便を漏らしていたが、集まった家来たちに、
「これは味噌じゃ。味噌じゃ」
と、ほっとして冗談を言って家康は笑った。武田軍に対する恐怖のあまり脱糞していた
のですが。家康は部下に冗談を言って笑わせた。
部下たちも
「そうじゃこれは糞ではない。臭くはないぞ。」
と笑って殿の下着を取り換えた。
夕食にみそ汁が出て、家康が、
「これはわしの味噌が入っていてことのほか旨いぞ」
と言ったので、家来たちは一瞬箸が止まったが、
「なるほど旨いうまい」と箸が進めた。
家康の長男竹千代は9歳で信長の娘篤姫と結婚して元服して信康と名乗っていたが、14差で初陣を飾り、順風漫歩に見えたが。
家康の実母の疑惑。
篤姫との不和。
様々な要因が重なり、家康自ら信康の切腹を命じた。
その後、湯津人の時はいつも、
「出陣だ。信康。